シータヒーリング 二元論

今日は大好きなアベンジャーズを題材にして、正義について書いてみようと思います。

シータヒーリングでは、五層(天界、神仏界)には善悪の二元論「善か悪か」で物事をジャッジする、という特徴があります。

「より大きな正義感は、より大きな悪を引き寄せる」これは真理だなと思います。自らの正義感を証明するために、目の前に悪を引き寄せるわけです。

アベンジャーズにはキャプテンアメリカという正義の塊、権化のようなヒーローがいます。彼は人の心の正しい部分を集約したような「高潔な」精神を持つキャラクターです。高潔な精神を持たない者には持ち上げられない、マイティソーの神々の武器「ムジョルニア」を人間の身でありながら持ち上げ、あまつさえ最後の決戦では使いこなしています。

その最後の決戦でアベンジャーズに倒されるヴィランの「サノス」。彼は最大の敵です。マーベルの世界観の中で、彼ほど強大な敵はいなかった。過去にタイムスリップするというとんでもない労力と、多大な犠牲を払ってやっと倒せた敵です。

強大なサノスを引き寄せたのは、キャプテンアメリカの高潔過ぎる正義感だろうな、とシータ的には分析出来ます。融通のきかない正義感。他のヒーロー達はもっと人間のカッコ悪い部分、ずるい部分をたくさん持っています。だから、アベンジャーズ として集結して総力戦にならない限り、個々のヒーロー単体で敵と戦っている限りはヴィランはみな等身大の小物です。ヒーローに強すぎる正義感がないから、「悪」もそれなり。
エンドゲームの戦いは、キャプテンアメリカが引き起こしたと言ってもいいでしょう。

五層の二元論には、ジャッジが入ります。そのジャッジは一方的です。「善」の側の定義観点で「悪」と決めつけます。では創造主の定義観点はどうでしょうか。創造主には善も悪もありません。「善」側も「悪」側もそれぞれ学びのためにドラマを創り出している、と捉えるだけです。どちらも必要な存在です。

私がアベンジャーズを好きなのは、ヴィランの、ヴィランなりの「正義」が描かれるからです。サノスは宇宙規模で大量虐殺を繰り返します。惑星の人口の半分だけランダムに生かし、半分を殺します。アベンジャーズ達の家族や大切な人、仲間も半分殺されました。当然怒り、サノスを止めなければ、となります。

でもそこには怒りしかありません。やられたことに対する怒り。そして、怒りをモチベーションにしてチームが団結し、信頼しあっていきます。良いチームワークを作り出します。これは「メリット」ですよね。

サノスの視点に立つと、彼は完全な悪ではありません。自分が生まれ育った惑星タイタンの食糧難、人口増加による諸々の弊害を目の当たりにして、このまま宇宙人口が増え続ければ争いが絶えなくなる、苦しむ人達が生じる、という彼なりの正義がそこにはあります。誰かが宇宙のバランスを取らなければならない。ならば自分がその泥を被ってバランスを保つ役目を引き受けよう、と考えます。

客観的に見れば、サノスの正義の定義観点は歪んでいます。動機は正しいかもしれませんが、実現方法に愛がありません。人口の半分を殺戮してバランスを保てば良いと考えてしまうのは、彼が母親から愛を与えられず忌み嫌われたことも原因でしょう。他者を愛する感覚感情や他者から愛される感覚感情、自分の意見をきいてもらえて、受け入れてもらえる感覚感情、これらをサノスが持っていたとしたら、半数を虐殺という方法で宇宙のバランスを保とうとすることはなかったでしょう。

人に自分の意見を聞いてもらえる、受け止めてもらえる経験がなく、それがどんな感じか分からないからこそ、そもそも人と対話で解決策を見つけようという発想が生まれません。自分が考えた意見を強引に押し通すことでしか意見が採用されないと思い込んでいるから、対話なしで独裁者になれるんです。

愛される経験や感覚を知っていたなら、自らも「目の前の相手を見て」愛するということが出来たでしょう。でもサノスは愛し方を知らないので、生身の一人ひとりの相手を見ずに、「人間の半数を殺せば残りの半分は幸せになれる」という愛が欠けた方法を採用できるのです。サノスの心の中には誰もいない。リアルに愛せる存在がいない。利害のための養子や部下はいても。愛を知っていたら、殺戮対象にした人達もまた、誰かの大切な愛する人だと分かりますよね。

戦いが巻き起こるのは、それぞれが自分の正義感を相手に強要し、一方的に立場を区切るからではないでしょうか。

アベンジャーズの面々には、サノスのパラダイムで物事を見る視点が一切ありません。サノスに対して一度も対話を試みませんでした。サノスが何故虐殺を繰り返すのか、ヴィラン側の事情を受け止めようとせず、即「悪」と決めてリベンジを開始しました。自分たちの正義の観点で裁こうとしました。サノスの事情なんて知ったこっちゃない。でも、やり方を間違えているだけで、サノスの心にはサノスの正義があります。

もしも両者が対話をしていたらどうだったでしょうか。いきなり武力行使をするのではなく、受容と提案を愛を持ってしていたらどうだったでしょうか。「正義」であるアベンジャーズが、サノスに寄り添っていたらどうだったでしょうか。アベンジャーズもまた、アベンジャーズの定義観点の正義しか持っていなかったから結末はどちらも大きな犠牲が出ました。アベンジャーズが創造主の定義観点の正義を持っていたなら、相手の言い分をまずは聴いて、そこにある「心」を汲み取って、一緒に解決する道を探れたかもしれません。サノス亡き後、増え続ける宇宙の人口問題にアベンジャーズは対処しません。他人事です。力を持っていても寄り添う心や愛がなければ、問題は何も解決されない。

これは日常生活の縮図ですよね。自分を傷つける人、怒りを覚える人に対して、悪!私は被害者!という目線でジャッジしてしまうと、そこから何も学べません。メリットは得るでしょうが、学びはありません。その、悪だとジャッジした相手のパラダイムで考えて、何故その人は人を傷つけるような言動をしたんだろう、何の感覚感情を知らないんだろう、と考えることはヒーラーなら出来ます。そして相手のパラダイムで考え、相手が持つビリーフや思い込みを理解出来た時、ヒーラー自身は気づくでしょう。そのビリーフや思い込みは、自分に学びを与えてくれるために必要なものだったと。もしかしたら同じテーマを持っているかもしれません。

アベンジャーズとサノスは両者が正義の定義観点を見直せる機会でしたよね。愛の定義観点、傾聴や話し合い、受容もお互いに欠けていましたよね。これらを学ぶ機会でした。犠牲を払ってこれを学びました。自分の日常に起こるネガティブなことも、自分のビリーフをワークする際に、相手のビリーフにも想いを馳せて愛のエネルギーで見つめてみると、たくさんの学びが得られると思います。それが「許し」のエネルギーになり、自分のビリーフを土台から完全に取るために必要なのではないでしょうか。

アベンジャーズ初期のニューヨーク編。ヴィランはロキでした。でもロキに対しては、お兄ちゃんであるソーが愛を持っていましたよね。裏切られても見捨てない。どこかで信じようとする愛です。だからロキは、同じヴィランでもサノスと違う結末を迎えました。ロキは万人を助けるために時の神になりました。(神は五層だから自己犠牲で宇宙を救う展開にしたマーベルすごいです。ドラマ版ロキの話です)

自分は神だとおごりたかぶり、人間を見下し支配することしか考えていなかったロキは、生身の人間達が個々の感情や生き様を持っていることを知り、仲間として愛し、受け入れてもらう喜びを知り、その環境にあることに感謝できるまでに変わりました。それは、お兄ちゃんであるソーの愛を知っていたからでしょうね。ロキの養母(ソーのママ)もちゃんとロキを愛していました。サノスとの違いは、そこだけ。なんならロキの方がソーに対しての「嫉妬とコンプレックス」が悪行の動機な分、質が悪かった。

アベンジャーズをシータ的に見ていくと、本が一冊出版出来るレベルなのでこのへんで。アベンジャーズ 好きな人はリクエストがあればアベンジャーズを教材にして自己犠牲や愛などのワークショップやりますよ笑