
何で競馬、競艇などの公営ギャンブルは合法で、パチンコも合法で、オンラインカジノが違法なのか。パチンコは法律の抜け穴を使って無理矢理合法にしているし、公営ギャンブルに至っては国庫が税収で潤うから合法になっているだけなんですね。ギャンブルは刑法の賭博罪にあたりますが、そもそもの《賭博が罪になる理由》を見れば公営だろうとなんだろうと、一律禁止が妥当という結論になります。※賭博とは、偶然に左右される勝負にお金を賭けることと定義されています。
賭博罪の根拠
昭和25年の最高裁の判例に賭博は何故罪なのか、が説かれています。要約すると、賭博をすると「国民が怠惰になり浪費するから」「健康で文化的な生活の基本となる勤労を害するから」「暴行や窃盗、脅迫など二次的犯罪を誘発するから」「国民経済に重大な影響を及ぼすから」ってことで禁止、つまり刑罰対象として取り締まる理由です。…なら、公営だろうが判例要件に該当する恐れがある以上ギャンブル全般だめよね。それを、公営にすれば国庫が潤うからOKって随分お偉いさんのご都合や利権で法の網目を抜けていませんか?
パチンコ合法化の仕組み
パチンコこそ、自死など人生が終わる依存を引き起こすギャンブルだと思います。自分でレバーを握れるから余計にハマってしまうでしょう。なぜ法律を抜けられるのか。それは、「無理があるだろ…」と小学生でも笑ってしまう理論を使って、それがまかり通るからです。それは「三点方式」と言う理屈。賭けて、直前金品のやり取りをすれば刑法185-6条に引っかかりますが、「換金所」をかませることで直接のやり取りを避けます。まず客はパチンコの出玉をカウンターに持って行き、景品と交換します(棒状の通貨がわりのダミー景品)。その景品を持って店外にある「換金所」に行き、現金に変えますが換金所はパチンコ屋とは別法人です。で、さらに別の「問屋」が景品を買い取り、パチンコ店に降ろし(戻し)ます。つまり、パチンコ店、換金所、問屋の全く別の店がそれぞれ取引をしているから違法じゃないでしょ?と言う理屈。…無理矢理感満載。では賭博が何故犯罪なのかの理由をもう一度読んでください。そう、法の抜け穴を抜けて合法化しても、本来刑罰として規定されたのは「国民が怠惰になり浪費するから」「健康で文化的な生活の基本となる勤労を害するから」「暴行や窃盗、脅迫など二次的犯罪を誘発するから」「国民経済に重大な影響を及ぼすから」でしたよね。これを良しとするのは、政治的な事情が多分にあるからだと思います。
公営カジノ
日本も万博跡地に公営カジノを作るとかなんとか言っていますが、ギャンブルはギャンブルです。偶然に左右される勝負事です。「法律」と言う、未熟な人間が作った穴だらけのルールを、これまたエゴで解釈する人間の思惑で擦り抜けている状況は、とても精神的に豊かな先進国とは言い難い。他の法律も、事故で死亡させた場合然り、治験対象が狭く対象でない人は保険適用出来ない法然り、様々な法が不整備で、それにより泣き寝入りしてきた人がたくさんいます。ルールは、調和のためにあります。権利や尊厳を守るためにあります。ならば、たかが文章の言い回しで抜け道を探せたり、被告人に有利な裁判に覆す余白を残す条文の「体裁」で解釈適用するのではなく、その法が本来取り締まろうとした「誰かの利益」を道徳的観点から解釈適用できるように、それを運用する「人」に精神的な成熟を求められる必要があるのではないかと思います。
呪い
先週日曜日から「法律」絡みでもの凄いサイキックアタック(というか呪い)を食らって瀕死でした。先ほどまで悶絶していました。今回ばかりは死ぬかもしれないと思いました。その中で「法」についてセルフワークを何度もしたので、オンラインカジノ等ギャンブルを題材に「道徳心で判断出来る世の中が精神的に豊かな世の中だ」という学びをみなさんにシェアします。柔軟性を発揮するには時としてあいまいな条文の方が時代の変化や価値観の変化に合わせて解釈を変えられる余地があるので良いのかもしれません。でも、すべては運用する人間の道徳心にかかっているのだと思います。ガチガチのルールは良くないし、どうとでも解釈できる緩すぎるルールも良くない。バランスが必要だということです。私は物事の最短を進める場合、3層は法律があるから当事者の「気持ち」に共感せずにバッサリ処分を決めることが出来るよね、不透明は法律であっても必要悪だよねという考えを遺伝的レベルで持っていました。その方がいちいち心を砕かずに「大勢の利益、今でいう公共の利益」を確保できると考えていたから。でもそこには慈愛がない。思いやりや共感をある程度のところでストップさせてしまう。みなさん。創造主の定義観点のルールと一致させておくと良いと思います。そして、道徳心を創造主の定義観点でもち、それを使いこなしながら生きる方法を持っていると良いと思います。自分のエゴとのバランスは慈愛と思いやりで取れます。でもそもそもの道徳心やルールの定義観点がずれていたら私のように死にかけるので、創造主から貰ってください。
そしてもうひとつ。ヒーラーであることは、呪いを送れば相手は死線をさまようと覚えておいてください。それだけ強力で解除が難しい。今回呪い(の呪文)が二重になっていました。受講生さんたちが一生懸命リーディングヒーリングしてくれてなんとかワーク出来ましたが、呪いのうち1つしかワークしていなかったからなかなか解除できませんでした。今日先輩ヒーラーさんが察知して助けてくれて、呪文解除した後の手順をリーディングで教えてくれたので二重だということに気づけました。痛みが激しかったので息子にコマンドをお願いしました。解除中に息子に愛と光を送り続けてもらって、私が呪文を特定して暗唱している間、息子は筋組織の変容と心臓部のヒーリング。「真っ黒でぬるぬるした蛇みたいなエネルギーが上がっていったよ」と見届けてくれました。シータヒーリングはこのように自分や誰かを助けるために在るものです。逆恨みで使うものではないということを、無意識でも威力が大きすぎるということを学べたので息子はじめ周りの方たちに感謝しながらみなさんにも伝えていきたいと思います。