シータヒーリング ジャッジ

シータヒーリングを始めて半年くらいの時、アナトミーの合間に普段学んでいた先生ではないインストラクターさんの対面練習会?に、知人に誘われて参加しました。かなり知名度の高い方です。

この時のトリガー経験が「人を愛のエネルギーで見る」ということを具体的に学んだ貴重な経験になるのでシェアしていきます。

参加者は3人だったのですが、1人の人が遅れて参加。しばらくは私と知人と講師だけ。その状況だったからか、講師に言われました。「大学受験した人〜?」手を挙げると「してそ〜笑」と言われました。

講師が何を言いたかったかというと、「今までの世の中は五層系のエネルギーの人がリードし、目立ち、重要視されてきた。けれど、これからは四層系の心から優しい人がフォーカスされていく時代だ。五層系の陰で目立たなかった人ほど重要になってくる」という内容。つまり受験というのは戦いのエネルギーが必要だから五層系だ、と。知人のような、優しい人が陽の目を見るからね、と知人にとっては励ましの言葉。

当時の私の脳内はこう。

うん。なんで今私、ジャッジされてるのかな?「してそ〜」の言葉に、この人のジャッジが乗っかってるわ。今までフォーカスされてきた?ええ、されてきましたよ?それが?優しい人がフォーカスされる時代になる、ということだけを言えばいいのに、何故五層系と括って「比較」すんの?そもそも五層と四層を比較してどうすんの?それって必要?あなたこそ、ジャッジみ溢れてますよね?それってあなたが今ディスった五層系エネルギーですよね。そんなんどっちでもええわ、どっちがフォーカスされる?違うがな。自分自身に問いかけ、ネガティブな感情を手放そうと真摯に向き合ってる人が「優しくなれる人」でしょ。四層系が優しい?短絡的じゃない?自己犠牲しても優しさがあればいいの?他人に支配されたり、言いたいことが言えない人も優しい人に含めちゃってるけど、それって、創造主の定義観点の優しさじゃなくて、あなたの定義観点ですよね?創造主に繋がりいつもそのサポートを信頼出来るまでにクリアリングされた人が、「幸せ」になるんでしょ。優しくなれるんでしょ。本当に優しい人は、強い人ですよね。自分と他者両方に向き合い、どちらも大切にできるのが優しさでしょ?自己犠牲や支配されるのは、自分自身に対して優しくないよね?なんやねんあなたが言ってる「優しい人」って。フォーカス?世の中にフォーカスされようがされまいが、他人軸で評価された価値観ってなんの意味をなす?自分を愛せるようになったらそれでいいじゃん。七層を大切にしていたら、そもそもこんな、生徒にジャッジのある話を主観でしませんよね?あなた、人を愛のエネルギーで見てないですよね。ジャッジしてるから。有名かもしれないけど、これがシータヒーリングを10年以上学んで来た姿なら、がっかりだわ。」でした。当時はね。…怒ってますねー私、笑。私の中のひろゆきが炸裂してましたねー。(確かに講師の主観に対して脳内でくってかかってるので、戦いのエネルギー強めだったのは認めます。

この時私は、アナトミー期間を通して私の中にある戦いのエネルギーをクリアにすることがテーマだったから、トリガーしてくれてありがとうございます、なんですけどね。

それで、トリガーに気づいて帰宅してビリーフワークをしました。そうか、私リレ2受講してから「人を愛のエネルギーで見る」を具体的に学びたいと創造主にリクエストしたから、これ創造主からの学びの機会だわ。じゃあ、この場合愛のエネルギーで見るとどう捉え直せる?と。

その講師に対してまず、私は「10年以上シータヒーリングやってるのに、こんな姿がシータヒーリングを学んだ未来ならがっかり。インストラクターなら、受講生が希望を持てる振る舞いして欲しい」と思っていた点。これ、良くないですよね。理想像を押し付けてました。人を愛のエネルギーで見るということは、その人がどんな言動をしようがどんな感覚感情を持っていようが、そのまま受け止めること。ある側面では、その人はその状態(遺伝子やビリーフや持ってる美徳の数)で一緒懸命に生きているということ。これは相手のパラダイムで考える際に重要なベースの捉え方です。また別の側面では人は皆、相互に学びをサポートしてくれるありがたい存在だということ。創造主が存在を許していて、必要だからこの世にいるということ。確かに、私はトリガーという学びのサポートをもらいました。自分の中にある戦いのエネルギーに真剣に向き合うきっかけになりました。会うべくして会って、成長の一段階で学びを共同創造してくれた。まだまだ学びはあります。

学びに必要な現実を共同創造するとき、なるほど相手も自分も同じ学びのテーマがあるから、種類や程度は違うけど、共同創造することになるんだな、という真理に辿り着けたし、この経験からずっと後になってから、セルフビリーフワークで相手のビリーフも加味して二重で掘れば学びを根こそぎ回収できると気づきました。原点はここにあります。私もまた、講師をジャッジしたから。私の定義観点で。お互いジャッジのエネルギーを持っていたから学びを共有したんだなと。

また、ここで「年数じゃない」ということに気づきました。人はそれぞれ学びのペースがある。シータヒーリングに出会った時点は、その人にとって必要だった時点。早いなら早いぶん、シフトに時間が必要だったのかもしれない。大切なのは、自分を過信することなく「創造主」を信頼することで、創造主との対話をeverytime人生の真ん中に置いて、空気を吸うように自然にそれをすること。これをしてれば、ワークももたらされたチャンスなのでワクワクするし、世界の色が変わるということに気づきました。頭ではなく、心で。なら、学んだ期間より創造主と密に対話する濃さだなと。

そして、創造主の定義観点の「責任」。この出来事がある少し前に、インストラクターになろうと決めたので、インストラクターとしての姿勢や責任は創造主の定義観点のそれと一致させておいた方がいいと気づきました。つまり、言動によって受講生さんがどう受け取るのかに配慮して、信頼を失わない言動が必要だということ。インストラクターに信頼を失うと、別のインストラクターに変えたらいいじゃんと思える人はいいけど、そのままシータヒーリング自体、創造主に対する信頼も育たないまま辞めてしまう人もいる。

実はこの練習会?の前日まで、頭痛嘔吐で目も開けられず、頭痛薬も一切効かず、練習会の参加が怪しかったんですよ。知人の手厚いサポートで何とか行けましたが、これも気づきです。まず、知人は夜22時過ぎてうちに来てくれて、首や頭、肩をマッサージしてくれました。何時間も遅くまで。この、相手を助けたいという優しさ。プロですよ?でも無償で相手のためにやる、という気持ち。そこには、ご家族との時間を犠牲にしたかもしれないけど「純粋な意図」がありました。助けたいという慈愛が。

そうか、慈愛は「完璧」な慈愛じゃなくても、たくさんの美徳がなきゃ慈愛にはならないと思っていたけど、慈愛のエネルギー自体は色んな段階があるだけで、持つことは出来るんだ、と学びました。例えば自己犠牲や清貧の誓い、エネルギー交換の理解が不足していたとしても、確かに相手のためという純粋な意図は慈愛です。そう考えると、一足飛びに慈愛を目指さなくても、少しずつクリアリングされていく過程でおのずと美徳が集まり、それが最終的に創造主の定義観点の慈愛になるんだ、と気づかせてもらえました。

結局私は、学びは得ましたがこの講師からシータヒーリングを習うという選択はしませんでした。それは、境界線についてもワークしたからです。知人は講師を素晴らしいと思っていて、生徒になった。それは尊重するし、みな自分の意志で様々な選択をしていく。けれど私は、創造主と直接自分で対話して真実を得て行くという意志を持ったから、主観が入らない講師がいいと思いました。歴が比較的浅くて、主観が入りづらくて、ヴァイアナから習ったことをウキウキ話す素直さのある先生を選びました。この時点での私にはこんなエネルギーがあっていたからです(今は私もエネルギーが変わったので、なるべくジョシュの「口」を通して創造主の叡智を受け取る学び方に変えたので、プラクティショナーセミナーは相性がよければ誰でもいいです)。

これは、自分の意志と相手の意志を同時に尊重して設置する境界線です。仲良しだからと同じことをしなくてもいい。一度お世話になったからと、義理に傾かなくてもいい。それは現在インストラクターをやりながらも強く思います。誰しもエネルギーが変われば必要とするインストラクターは変わる。出会う人も変わる。だから、気軽に受講してそれっきりでも構わない。その人に必要な道を自由意志で選択することが、その人が自分を大切にすることだから。

ただ突き放しているわけではなく、リーディングはします。過去の受講生が今困っているなら、定期的に遠隔でリーディングしてそれが分かったら、LINEしたりしています。大抵LINEしようかなと思った時に、先に向こうからくれるミラクルが起こるので、やはり創造主のサポートを得ていると必要な時に必要な人とアクセスするんだなと感じます。

いかがでしょうか。練習会で戦闘体制になっていた私も、きちんとワークすればこれだけ学びがあります。そうそう、ネガティブな学び方手放しちゃえば、そもそも戦闘体制になることもないのでもちろんそれもワークしましたよ。参考になれば。